斎藤道三と油座 (大山崎町 )
楽市楽座
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斎藤道三さいとうどうさん 1494〜1556 名前:峯丸ー松浪庄九郎ー長井新九郎規秀ー斎藤秀龍ー斎藤道三 |
< 離宮八幡宮 >
山崎の油売り
大山崎八幡宮
| (離宮八幡宮) 山崎の商都は中世末期に栄えその繁栄は戦国中期にまで及ぶ。現在は東海道線ができた為に 境内を分断されたが、当時は恐らく敷地は1万坪はあっただろうと、司馬遼太郎は「国盗り物語」に書いている。鳥居の両側に百三十 軒の社家が立ち並び、町外れには遊女屋がびっしりと軒を並べていた。それだけ栄えたのも足利幕府から油の専売件を与えられ この八幡宮の許しが なければ油を売る事も原料の荏胡麻を産地から運んでくる事もできない。全国の油屋は金銀を 八幡宮に収めて製造販売の権利を買い取るのである。 その権利も一年限りのもので翌年にはまた収めなければならない。その為八幡宮は大名より 富豪で境内の蔵には金銀がうなりをあげていたとされる。さらに神社は武装した神人(寺の僧兵)を数百人も養い、勝手に油を売るものがあれば遠国まで押しかけていって店を壊した。没落同然の足利将軍家はこういう許可権を与えることで八幡宮から金を取っていたと思われる。 現在の八幡宮は背後に天王山を背負いJR山崎駅のそばでありながら、参詣者もほとんどなく往年の面影は感じられないが、吉原製油、 味の素、昭和産業といった企業が氏子になっているようだ。隣り合わせる様に「三笑亭」という神宮ゆかりのてんぷら料理を食わせる料亭があり、 司馬遼太郎「国盗り物語」が大河ドラマとしてテレビ化されたときは何度となく紹介されている 大山崎八幡宮(離宮八幡宮)神官は当時と同じ津田氏の世襲である。 注 本宮は嵯峨天皇の離宮跡にあたる。作られた当時は現在の三倍以上もあったが、鉄道の敷き設で縮小になる。元治の変に長藩の別働隊が最初にここを占拠し、焼き払ったが有名な離八幡宮文書はこの時水無瀬御影堂(水無瀬神宮)に避難し、焼失を免れた。 社内には河陽(かや)離宮跡の石碑が立ち、能面に似ているところから呼ばれたという、かしき石が残る。 |