天王山と古城跡
山崎の戦いの後「天下分け目の天王山」とか「今度が天王山」とか使われる様になるが、 丹波高原の余脈で、270M余の低い山であるが、対岸男山とは淀川をはさんで1キロM余りの自然な関門をつくり、政治の中心の京都を控えての軍事上、交通上(陸・川)の要所として重要な位置でえあった。頂上の古城跡は文明年間、山名弾正忠是豊の築城の後、山崎合戦直後に秀吉が改造したものと思われる。江戸時代には山頂から十三峠・天王山・伏見に遠眼鏡をもった相場振りを配置し、大阪の商況を旗信号で京都に伝えていた。 |

| 上の写真から天王山(山崎側から)中は天王山・山上の現在に残る城井戸跡。 下は山崎合戦後に秀吉が築城した山城の想像図。 |

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「 山崎の戦い」で勝利を収めた秀吉は、信長が大坂築城を前提に天下統一前の拠点として京に近い安土城を築いたことに共通する様に、守備体制が有利な山城のあとに築城しするが、主君の仇を討った秀吉の自信の表れであり、柴田勝家を破ってさらに、天下人の自信を強くしわずか一年後には大阪城築城にとりかかる。 |