[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

       Webスター
トップページ天王山物語トップ天王山と付近の地図紹介戦国時代 油座、八幡宮光秀の誤算秀吉「信長」の弔い合戦合戦配置図 
本能寺の変の戦後処理 清洲会議の明暗朝廷の利用 戦国の武将とリンク・・宝寺城・・・・・・・・
        

    
       
           
光秀を撃破した秀吉は天王山に城を築き天下掌握の自信を示す。 
           
 
主君・信長の弔い合戦天正十年(1582)六月三日の未明、備中高松城を包囲中の秀吉は偶然、
         本能寺で信長が殺された事を知る。光秀が毛利方に放った 密使が
闇夜で道を間違え秀吉方に迷いこんで
         しまったのだ。秀吉にとってまさに晴天の霹靂であったが、躊躇している時間はない。直ぐに光秀と戦う事を

       
決断し、六月四日に講和の条件である城主・清水宗治の湖上での切腹を見届けた後、翌朝、直ちに居城・
        姫路城に向かって七十キロメートルの行程をわずか二日間で駆け抜け
また姫路から尼崎までの八十キロ
メートルを これまた二日間で駆け抜けた。これが世に言う「
中国大返し」である。       

                                 
                    

                                  旗立松付近から古戦場を望む



光秀の誤算光秀の軍が丹波亀山を発ったのは六月一日夜も十時過ぎであった。その数一万三千。
 秀吉の備中責めの援軍として信長軍と備中で合流するはずであった。亀山から備中へ行くには
       大阪北部の能勢あたりの峠を越して播州に出るのが経路であった。しかし兵は峠を越さず にUターンし、
      京の信長の閲兵を受けるのだと兵に信じさせ京に向かう。(
明智戻り岩)二条城近くの妙覚寺で信長の
  嫡子・信忠を討ち、本能寺にて信長を殺害(自刃)し、これよりわずか先に夫人濃姫が殺された。
この時信長満四十八歳であった。
(本能寺の変)                       
                                                         


     
        本丸近くの井戸跡、臨戦体制下の山城として築城

 
           
信長を倒した光秀は諸将に書簡を送り、又信長の本拠安土城の安全確保に奔走、あるいは朝廷に銀子を
  献上するなどしている。
しかしその成果は努力に比して効は少なかった。当然光秀の援軍としてはせ参じる
   と期待していた
細川幽斎(藤孝)と忠興父子 筒井順慶共に動かず、軍事的には最初から誤算であった。
     藤孝・筒井とも明智軍団の与力大名であり、藤孝の子忠興は光秀の
娘(お玉、のちの洗礼名ガラシャ婿である。
       さらに加えて大きいショックは秀吉の中国大返しの予想以上のスピードだった。光秀が秀吉の動きを知った十一日には
      秀吉はもう
尼崎まで来ていた。そして光秀の組下であった池田恒興・茨木城の中川清秀・高槻城の高山右近などまで           
秀吉軍に合流した。