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秀吉、主君信長の弔い合戦
山崎の戦い六月十二日空しく洞ヶ峠を降りた明智光秀は、一万六千人の直属軍を天王山の東麓から円明寺川に沿って
集結し、当時は未だ川幅が広く、狭い隘路のような山崎で三万六千の秀吉を迎え撃つしか道は残されていなかった。羽柴軍は
本隊を現在の駅近辺に構え、中川清秀軍は高山隊の後陣を嫌い、開戦後天王山から平野部へ出て斎藤隊と交戦した。黒田官
兵衛隊と羽柴秀長隊は天王山に布陣。池田恒興隊は右翼を受け持ち真っ先に光秀軍の津田隊と交戦しこれを圧倒するや、秀吉
は全軍に総攻撃をかけた。戦いはわずか数時間で決着がついた。光秀は前線基地としていた勝龍寺城に一度は逃げこむが、
とても秀吉軍を迎え撃つ事は無理で坂本城に向かうが、山科・小栗栖に差し掛かったところで土民の竹槍で重傷を負い自刃して
果てた。これを三日天下という。
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