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  トップページ天王山物語トップ天王山と付近の地図紹介戦国時代 油座、八幡宮光秀の誤算秀吉「信長」の弔い合戦合戦配置図 
   ー本能寺の変の戦後処理 清洲会議の明暗朝廷の利用 戦国の武将とリンク・・宝寺城・・・・・・・

                                    


         
                 本能寺の変の戦後処理   
             
 清洲会議までの秀吉の深謀                                        
山崎の合戦で光秀を破った後、六月二十七日の清洲会議で信長の嫡孫三法師を担ぎ出して信雄・信孝を出し抜いた手際が、
後世、秀吉の手練手管として賞賛されている。 しかし、秀吉の策略が発揮されたのは,これよりもっと前、山崎の合戦に勝利を
収めたその日からという。つまり山崎の合戦の後から清洲会議迄二週間の出来事が空白になっているという。 山崎の合戦で
光秀を破ったのは秀吉だけではない。信長の三男・信孝がおり、丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・高山重友らの諸将もいた。
清洲会議の前に秀吉は信長の 二人の息子を蹴落とすとともに、他の僚将よりも優位に立つことになったきっかけを掴んだの 
ではないか。これらを検証してみよう。                                                    
    

六月十四日光秀が小栗栖付近で非業の最後を遂げた頃、秀吉は明智方の拠点であった勝龍寺を落とし、上洛しようとしていた。
この時、秀吉が僚将の中川清秀に対してあたかも主君のような振る舞いをして、清秀を大いに憤慨させたという逸話がある。主君
のあだ討ちとしてその機敏な行動と主君に対する忠誠の一念は誰もが賞賛したであろう。が、しかし 先にも述べたが光秀に勝っ
たのは秀吉だけではなかった。なかでも三男信孝の存在である。信孝は信雄より二十日程早く生まれたにもかかわらず、母が側
室だった為、三男扱い されるという屈辱を味わっていた。その信孝が信長の弔い合戦に参戦して勝った事で、織田家の家督問題
で信雄より優位になったと自負しても決して不思議ではない。 このままでは光秀打倒後の焦点が家督問題に集中してしまう。
そうなると光秀を討った実績があり、血統上からも信孝が主導権を握る恐れありとみた秀吉は、流れを変えるために朝廷を利用す
るという隠れた武器を使うのである
。